朝三暮四「それは、損しているわけではありません」

朝三暮四「それは、損しているわけではありません」 しおり堂の処方箋

九月に入って最初の夜だった。閉店の支度を進めていた栞の耳に、路地の向こうで唸り始めた風の音が届いた。ガラス戸を押して入ってきたのは、スーツにネクタイをきちんと締めた男だった。傘を持たずに来たらしく、肩に細かい雨粒がついていた。会社の同僚から、迷っているときに一冊選んでもらうと、少し気持ちが軽くなると聞いて、来てみたのだという。

「こんばんは」栞が声をかけると、辻本和彦(63歳)は入り口で足を止めたまま、店の中をゆっくり見回した。「こんな時間にすみません。近くまで来る用事があったので」短く答え、本棚の背表紙をひとつずつ目で追い始めた。栞はコーヒーを一杯出し、「何かお探しですか」とだけ聞いた。

辻本は湯気の立つカップを両手で包み、しばらく黙っていた。やがて、来春定年を迎えることになっていると切り出した。会社からは、定年後も引き続き働けるよう、二つの契約案が示されている。一つは、最初の数年は今の給与に近い額で働き、後半は下がる案。もう一つは、最初から給与を下げて、後半に上乗せする案。人事の担当者は、五年間の合計で見ればほとんど差はないと説明した。それでも辻本は、どちらを選んでも自分だけが損をする取り決めのように思えて、決められずにいた。家でその話ばかりしていたら、妻からもうやめてほしいと言われたという。

栞は少し考えてから、書架の奥から一冊を取り出し、辻本の前に置いた。

原典 ── 『列子』黄帝篇

宋の国に、猿を大勢飼っている狙公(そこう)という老人がいた。猿を可愛がり、猿の気持ちもよく分かる人だった。ところが家が貧しくなり、団栗の餌を減らさなければならなくなった。まず猿たちに諮り、「朝に三つ、暮れに四つやろう」と言うと、猿たちは一斉に怒り出した。そこで「では朝に四つ、暮れに三つにしよう」と言い直すと、猿たちはみな喜んだ。一日にもらえる団栗の数は、どちらも合わせて七つで変わらない。『荘子』斉物論にも、同じ話が見える。

「朝三暮四って言うんです」栞はコーヒーを注ぎ足しながら言った。「今の言い方だと、うまい言葉で丸め込まれることや、目先の違いに気づかず一喜一憂することを指しますよね。猿は数を数えられなかった、っていう笑い話みたいに使われることが多いです」

「それは、まさに自分のことです」辻本は苦笑した。「人事に、朝三暮四の猿と同じですよ、と言われた気がしました。合計は同じなんだから、どちらでもいいでしょうと」

けれど栞は首を横に振った。「わたしは、この話を読むたびに、猿は間違っていないと思うんです。狙公は、猿の気持ちが分かる人だったと書いてあります。猿たちが本当に欲しかったのは、団栗の合計じゃなくて、朝、お腹が空いている今すぐの一つだったんじゃないでしょうか。狙公はそれを分かっていたから、言い方を変えただけで、ちゃんと猿の望むとおりにしてあげたんだと思います」

「でも結局、数は同じですよね。だまされているのと変わらない気がします」

「そうかもしれません。でも、同じ七つでも、朝が三つになるか四つになるかでは、今日を過ごす気持ちが違います。それを『どうせ合計は同じだから気にするな』と言われたら、わたしも腹が立つと思います」

しおり堂の処方箋

それは、損しているわけではありません。同じ合計でも、どちらを先に受け取りたいかを選ぶ権利は、あなたにあります。

「人事の方は、合計で見れば同じだから、と言いました。それは計算としては正しいんだと思います。でも、暮らしは合計で流れていくわけじゃなくて、一年ずつ、一月ずつ流れていきますよね。最初の数年を今の給与に近い額で過ごしたいのか、後半にまとめて受け取りたいのか。それは損得の問題ではなくて、この先の暮らし方をどちらで組み立てたいかという、辻本さんにしか決められないことだと思います」栞はそう言って、カップに残ったコーヒーに目を落とした。「狙公の猿たちは、だまされたんじゃなくて、自分が今日欲しいものを、ちゃんと声に出して怒っただけです」

辻本はしばらく黙って本の表紙を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。「損得の話だと思っていたから、選び方が分からなかったんだと思います」まだ、二つの案のどちらを選ぶかは決めていない。それでも、店を出るときの足取りは、来たときよりいくらか軽く見えた。ドアを押すと、雨はもうやんでいた。

しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。

※本連載はフィクションです。制作体制については編集方針・AI利用ポリシーをご覧ください。

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