※本記事は公的統計データに基づき、現代の家計事情をリアルに再現したシミュレーション・ストーリーです。
8月の最初の水曜日、牧原奈美は台所のテーブルで通帳を開いていました。夫の牧原和之が、封を切ったままの茶封筒をその横に置きます。
「破産手続開始の申立て、って書いてある」
「……いつの話」
「先週」和之はコップに水を注ぎました。「事業停止のときに、うすうすは」
奈美は通帳の最後の行を見ました。7月の給料日の欄が、空いたままです。
振り込みがないまま、7月が終わりました
牧原和之は47歳。建設資材の卸売会社で20年、営業をしてきました。額面の月給は38万円、手取りで30万円です。妻の奈美は45歳で、スーパーのレジのパートに出ています。手取りは月9万2000円。高校1年の長女と、中学2年の長男がいます。
6月の終わりに、会社は事業を止めました。和之のところに事業停止の通知が回ってきたのは、その2日前です。5月分と6月分の給与は支払われないまま、7月の給料日を過ぎました。20年勤めた退職金も、規定では約120万円のはずでしたが、振り込まれていません。
未払いになった金額は、5月分の38万円、6月分の38万円、退職金の120万円で、合わせて196万円になります。
「取引先が飛んだ、って話は聞いてたんだ」和之は言いました。「でも、まさか給料のほうが先に止まると思わないだろう」
奈美は、7月に買った長女の夏服のことを考えていました。あのときは、まだ8月のボーナスの話をしていたのです。
未払賃金の8割は国が立て替える 残りの2割は戻らない
勤め先が倒産して賃金が支払われないまま退職した人のために、未払賃金立替払制度があります。厚生労働省の説明によれば、これは「企業倒産により賃金が支払われないまま退職した労働者に対して、未払賃金の一部を立替払する制度」です。実際の立替払は独立行政法人労働者健康安全機構が行います。
立替払の額は、厚生労働省のQ&Aに「未払賃金総額の100分の80です」と書かれています。全額ではありません。さらに、退職日の年齢によって、もとになる未払賃金総額に限度額が置かれています。
- 30歳未満:110万円(立替払の上限は88万円)
- 30歳以上45歳未満:220万円(立替払の上限は176万円)
- 45歳以上:370万円(立替払の上限は296万円)
対象になるのは、毎月の給与支払日に支払われる定期賃金と退職金です。賞与は対象になりません。また、退職日の6か月前から立替払を請求する日の前日までに支払日が来ている未払賃金が対象で、その総額が2万円未満のときも対象外になります。
和之は47歳なので、限度額は370万円の区分です。未払いの196万円は限度額の中に収まるので、8割の156万8000円が立替払の対象になります。逆にいえば、残りの39万2000円は戻ってきません。
「4割減るとかじゃなくて、2割か」和之は電卓を叩きました。「40万か」
「40万」奈美は繰り返しました。長男の塾代の、1年半ぶんです。
この制度を使う人は、めずらしくありません。労働者健康安全機構によれば、2024年度(令和6年度)の支給者数は3万591人、支給額は約110億円です。制度が始まった1976年(昭和51年)から2025年(令和7年)3月までの累計では、約137万人に対して総額約5651億円が立替払されています。
立替払も失業給付も、いますぐには入りません
牧原家にとって効いたのは、金額の話よりも、時間の話でした。
立替払は、請求の手続きをして初めて受けられます。厚生労働省のQ&Aには、破産手続開始決定等の日から2年以内に立替払請求を行うこと、と期限が書かれています。期限には余裕がありますが、逆にいえば、申立てをした翌週に振り込まれるようなお金ではありません。
失業給付も同じです。和之の年齢の区分では、基本手当日額に上限があります。厚生労働省の資料によれば、45歳から59歳の上限額は、2026年8月1日から8870円が9110円に変わりました。仮に上限いっぱいを30日分受け取れたとしても27万3300円で、これまでの手取りの30万円には届きません。しかも、窓口では最初の振込までにひと月ほどかかると言われました。
つまり、8月・9月・10月あたりの家計は、いま口座にあるお金だけで回すことになります。
リアル家計簿:牧原家(夫47歳・妻45歳・子2人)
まず、倒産前の6月までの家計です。
収入
- 夫の給与の手取り:30万円
- 妻のパート収入の手取り:9万2000円
- 児童手当(偶数月払いの月割り):2万円
- 収入合計:41万2000円
固定費
- 住宅ローン(変動金利・残り18年):9万4000円
- 通信費(スマホ4台・光回線):1万6000円
- 生命保険・医療保険(夫婦2人分):2万4000円
- 車1台(ローン・任意保険・駐車場):3万8000円
- 長女の高校の納付金(教材費・PTA会費・修学旅行の積立):1万2000円
- 長男の塾(週2回):2万2000円
- 長男の部活動費:4000円
- 固定費小計:21万円
変動費
- 食費(4人分・弁当2つを含む):7万8000円
- 電気・ガス・水道:2万4000円
- ガソリン・交通費:1万4000円
- 日用品・衣料:1万6000円
- 医療費・こづかい:2万2000円
- 変動費小計:15万4000円
特別費(年間支出の月割り)
- 自動車税・車検・タイヤ交換(年間約11万円の月割り):9000円
- 固定資産税(年間約12万円の月割り):1万円
- 帰省・冠婚葬祭・家電の買い替え(年間約18万円の月割り):1万5000円
- 特別費小計:3万4000円
貯蓄
- 長女の大学費用の積立:2万円
- 支出合計:41万8000円
- 収支:−6000円(ボーナスで補填)
毎月は6000円の赤字ですが、夏と冬のボーナスで埋めてきました。長女の大学費用の積立を止めずに続けられていたのは、そのボーナスがあったからです。
6000円の赤字が24万3000円の赤字になりました
8月の収入は、妻のパートの9万2000円と児童手当の2万円だけになりました。合わせて11万2000円です。
2人はその晩、削れるものを紙に書き出しました。長女の大学費用の積立の2万円を止め、長男の塾を休会にして2万2000円を止め、食費を1万3000円、医療費とこづかいを8000円それぞれ減らします。合わせて6万3000円。支出は41万8000円から35万5000円になりました。
収支は、11万2000円から35万5000円を引いて、月24万3000円の赤字です。6000円だった赤字が、40倍を超えました。
口座には、夫婦で貯めてきた生活費の予備が180万円あります。この赤字が4か月続けば97万2000円が減り、残りは82万8000円になります。立替払の156万8000円が入ってくれば口座は戻りますが、それがいつになるかは、まだ誰も言えません。
「塾、いつ戻せる」長男が台所の入口から聞きました。
「戻す」和之は答えました。「戻すから、いまは休んどけ」
言い切ってから、和之は自分の声が少し大きかったことに気づきました。
和之が数えていたのは、戻ってくる金額ではありませんでした
その週末、和之は電卓を持って何度も同じ計算をしていました。196万円の8割で156万8000円。戻らないのが39万2000円。数字は変わりません。それでも、彼は何度も叩き直しました。
「その2割さ」和之は言いました。「あれ、俺が働いた分なんだよな」
奈美は返す言葉を探しました。制度が悪いわけではありません。何もなければ、196万円はまるごと戻ってこなかったのです。それでも、5月と6月に和之が朝早く出ていった日々のうち、いくらかは値段が付かないまま終わる。夫が数えていたのは金額ではなく、そのことのようでした。
制度は、家計が落ちる速さをゆるめてくれます。ただ、落ちること自体を止めてはくれません。牧原家に必要なのは、立替払が入るまでの数か月を、どこまで薄く延ばせるかという算段でした。
まとめ
- 勤め先の倒産で、5月分・6月分の給与と退職金の合わせて196万円が未払いになった
- 未払賃金立替払制度で立て替えられるのは未払賃金総額の8割で、残りの2割は戻らない
- もとになる未払賃金総額には退職日の年齢による限度額があり、45歳以上は370万円(立替払の上限は296万円)
- 対象は定期賃金と退職金で、賞与は対象にならない
- 2024年度(令和6年度)の支給者数は3万591人、支給額は約110億円
- 月の収支は6000円の赤字から24万3000円の赤字になり、立替払が入るまでは貯金の取り崩しで回すことになった
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