朝の澄んだ光が、しおり堂の硝子戸を斜めに切っていた。開店したばかりの店内はまだひんやりとして、蝉の声も遠くでかすかに鳴き始めたばかりだった。
その静けさの中に、一人の女性が入ってきた。二十代後半、通勤鞄を肩にかけたまま、少し落ち着かない様子で棚を眺めている。
「おはようございます」と栞さんが声をかけた。
女性は小さく会釈して、「あの、少し時間があったので……」と言ったが、視線は本ではなく、どこか宙に向いているようだった。
栞さんはコーヒーを一口飲んでから、「お仕事、今日は早いんですか」と聞いた。
「はい。でも、いつもは素通りするこの店に、今日はなぜか入る気になって」
女性はしばらく黙って棚を眺めていたが、ふと口を開いた。「昨日、大学の同期から連絡があったんです。海外に転勤するって。私、この街から出たことがなくて。就職してからずっと、同じ会社で、同じ景色の中にいます」
栞さんは静かに頷いた。「それを聞いて、どう思いましたか」
「怖くなった、というのとも少し違って……。自分の知っている世界が、思っていたよりずっと小さいんじゃないかって、急に不安になったんです。今まで、それで満足していたはずなのに」
栞さんは少し考えてから、奥の棚に手を伸ばした。古い、線装に近い体裁の一冊だった。
原典 ── 『荘子』外篇 秋水篇
井蛙不可以語於海者、拘於虚也。(井蛙は以て海を語るべからざるは、虚に拘ればなり)――井戸の中の蛙に海の話をしても分からないのは、その蛙が愚かだからではなく、狭い場所に閉じ込められているからだ。
「井戸の中の蛙は、海の話をされても分かりません」と栞さんはページを指でなぞりながら言った。「でもそれは、蛙が愚かだからじゃなくて、井戸の中しか知らないからなんです」
女性は少し考えて、「私も、その蛙みたいなものですか」と聞いた。
「そうかもしれません」と栞さんは頷いた。「でも、この話には続きがあります。荘子はこの言葉で、蛙を笑いたかったわけじゃないんです。井戸の中にいることに気づいた瞬間、蛙はもう、ただの井戸の蛙ではいられなくなる。気づくこと自体が、外に出る一歩なんです」
「気づいてしまったら、もう戻れないってことですか」
「はい。でも、それは悪いことじゃありません。あなたが今日、不安になったのは、井戸の中にずっといたからじゃなくて、その外があることに気づき始めたからです」
女性は少し黙ってから、「じゃあ、私はいつまでも井戸の中の蛙のままなんでしょうか」とつぶやいた。
栞さんは首を横に振った。「日本に伝わったとき、この言葉には続きが付け加えられたんです。『されど空の深さを知る』。狭い場所にいたからこそ、その場所の深いところまで見られる、という意味です。海を知らないことは、恥でも失敗でもありません。ただ、今から見に行けばいいだけのことです」
しおり堂の処方箋
その海を、今から見に行けばいいのです。女性はしばらく本を見つめていたが、やがて小さく笑った。「今まで、自分の世界が狭いことを、どこかで恥ずかしいと思っていました。でも、狭かったからこそ、今、初めて海を見に行けるんですね」
「はい」と栞さんは微笑んだ。「その海がどんな色をしているか、見てきたら、また教えてください」
女性は少し軽くなった足取りで、店の外の朝の光の中へ出ていった。蝉の声が、いつの間にか少し大きくなっていた。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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