蝉の声が、通りの向こうから途切れずに続いている。七月の終わりの昼下がり。日差しは白く、路地の影だけが濃かった。
しおり堂のドアが開いて、ワイシャツ姿の男が入ってきた。ネクタイは緩んでいる。ハンカチで首筋を押さえながら、男は店の涼しさに少しだけ息をついた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥で、栞さんがグラスにアイスコーヒーを注いでいた。氷がからりと鳴る。
「あの……ここ、しおり堂さん、ですよね。学生時代の友人に聞いたんです。悩んでいるとき、一冊選んでもらうと、少し楽になる店があるって」
「本は売るほどありますよ」栞さんは棚のほうへ軽く手を向けた。
男は高村悠介(34歳)。機械メーカーの企画課で働いている。棚を眺めるでもなく、しばらく入り口の近くに立っていたが、やがてぽつりと言った。
「争いごとに効く本って、ありますか」
「争いごと、ですか」
「同期と、もう半年やり合ってるんです」
高村の話はこうだった。春に始まった新しいプロジェクトで、同期の男とどちらが主導するかが曖昧なまま走り出した。会議のたびに相手の案の穴を探し、自分の案が通れば、今度は相手が根回しでひっくり返す。今では、仕事の中身より、相手に負けないことのほうが先に頭に浮かぶ。
「気づいたら、夜中に相手の資料の粗を探してるんです。おかしいですよね。プロジェクトのためでも、なんでもないのに」
栞さんは少し考えてから、棚の奥に手を伸ばした。えんじ色の布張りの、古い本だった。
「中国の古い話を集めた本です。この中に、シギと貝の話があります」
原典 ── 『戦国策』燕策
川辺で、蚌(どぶがい)が殻を開けて日なたぼっこをしていた。そこへシギが来て、肉をついばもうとする。蚌は殻を固く閉じ、シギのくちばしを挟み込んだ。シギは「今日も明日も雨が降らなければ、おまえは干からびてしまう」と言い、蚌は「今日も明日もくちばしを放さなければ、おまえこそ動けないままだ」と言い返す。どちらも譲らずにらみ合ううち、通りかかった漁師が、二匹をまとめて捕らえてしまった。戦国時代、趙が燕を攻めようとしたとき、蘇代という男がこの話を趙の恵文王に説き、王は出兵を思いとどまったと伝えられる。「漁夫の利、という言葉のもとになった話です」栞さんはグラスを置いて言った。「ふつうは、争っている二人を横目に第三者が得をする、だから漁夫に気をつけなさい、という教訓で読まれますね」
「うちの場合、漁夫は誰なんでしょうね。別の部署とか」
「さあ。でも、わたしは少し別のところが気になるんです」栞さんは本の表紙を軽くなでた。「シギと貝は、漁師が来る前から、もう動けなくなっていました。くちばしを挟んだまま、殻を閉じたまま。相手を放したら負けだと、どちらも思っていたから」
高村は黙っていた。
「シギは空を飛べる鳥です。貝は水の底で暮らしていける。それなのにあの川辺では、二匹とも、自分の得意なことをひとつもしていません。相手をつかまえておくことに、全部使ってしまって」
「……放したほうが、負けじゃないんですか」
「放したほうが、先に自由になるんですよ」
しおり堂の処方箋
くちばしを放した方から、先に自由になれます。「勝ち負けは、くちばしを放した瞬間に決まるものではないと思います」栞さんは続けた。「高村さんの本当のお仕事は、同期の方をつかまえておくことではなくて、企画を形にすることですよね。くちばしを放して、翼のほうを使えばいい。それに」
「それに?」
「半年分の夜中の時間は、もう漁師に持っていかれています。これ以上渡すことは、ありませんよ」
高村は笑った。店に入ってから、初めての笑いだった。会計を済ませ、本を鞄にしまう。
「あいつ、貝のくせに」ドアの前で、彼はそう言った。「いや……俺のほうが貝なのかな」
「どちらでも同じですよ」栞さんはアイスコーヒーの氷を軽く揺らした。「放す口は、自分の側にしかありませんから」
外ではまだ蝉が鳴いている。高村はネクタイを締め直さないまま、白い日差しの中へ出ていった。
しおり堂の場所は、ご自身でお探しください。
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